海外で育つ子供たちの心の盾になりえるもの

前回のブログ「海外で育つ子供たちの“心の軸” ― 親が背負わなくていいもの」では
アイデンティティの「育ち」の話をしましたが、最後は「守り」について触れたいと思います。


それは本当にアイデンティティの問題なのか

海外で育った後、日本に住むことになった時にあるあるエピソード
「なんか英語しゃべってみてよ!」
しぶしぶ話すと「おーペラペラ!やっぱ私たち純ジャパとはちがうよね~。」
何かにつけ「あー海外育ちって感じよね」といわれる。
そんな時、「自分は何者なのだろうか。。」と自身のアイデンティティを疑ってしまう。

渡米前、こんな情報を探しては、私たちのせいで子供が悩んでしまったらどうしよう。。
とひとり不安になっていました。
このあるある事例、アイデンティティに密接に紐づく事柄かのように見えます。

でもそれ、実は“誤解”なのです。

私たちは「ちゃんと属していること」を確認したい生き物

何が誤解かというと、この行為
アイデンティティを疑われているのではなく
単に周りが“集団にちゃんと帰属していることを確認したい”
がために“利用されているだけ”なのです。

私たち人間は古くから、集団に属することで生き延びてきました。
そのため「どこに属しているか」を確認したがる本能があります。

同じ集団にいるように見えても、そこには集団を分ける透明な仕切りがある。
人はその境界を確かめるために、無意識に仕切りを越えていそうな人を使って、
自分の位置や境界(仕切りの位置)を確認して安心したいのです。

日本では特に、歴史的・文化的背景から
同質性の高い集団の中で生きてきたため、その前提条件は細かく
かつ「違い」に理由を求める傾向があります。

だから確認行為は海外で育った人だけに向けられているのではありませんし、
その集団の範囲は時と場合によって様々。
「体育会って感じ」
「お嬢さん育ちだからね」
「関西弁しゃべって」
多くは悪意なく、無意識に貼られるラベルです。

ただ、それが「海外育ち」というラベルだった場合
アイデンティティの問題と結びつきやすい
それだけのことなのです。

でもその構造を知らなければ、それは鋭利な刃物となってその子を傷つける。
「守り」とは「構造を理解し、他人の不安や確認作業を自分の問題にしない力」
つまり、過剰な自責を意識的に止める力なのです。

構造を知ることで守れるもの

子どもが傷ついた時、親は大きな心のセーフティネットです。
つらい気持ちへの共感とともに是非伝えてあげて欲しいのです。

「それはもらい事故のようなもの。あなたのアイデンティティとは別問題だよ」と。

自分に刃を向ける事は「しなくてもいいこと」だと伝えられれば、
子供たちは無駄に苦しまずに済みます。
どんな球が来るか分からないときは怖いし、
思ってもみない方向から剛速球が来たら怪我をする。

でも、事前にその構造を理解していれば
「ああこれね」
「これは私の問題ではない。」
とかわすことができる。これは大きな違いです。

親が「埋められない」もの

ただ、わかっていても気持ちのいいものではないし
心が削られるときもある。
そして、たとえ頭で理解できたとしても
先に挙げた「どこかに属したい」「同じでありたい」
という人間の本能的欲求が満たされないと
次にくるのは「孤独」。

これは親では埋められないものなのです。

それを埋められるのは、補習校や日系コミュニティなどで出会った
「同じく複数の文化のもとで育った友達。」


兄弟姉妹でもいい。連帯感を感じ
「ひとりじゃない」と実感できる存在は
時に親以上に子どもの心を支えます。

以前、日本で働いていたとき
帰国子女の後輩が、同じく海外で育った旧友たちと

密につながっているのを見て驚いたことがありました。

今思えば、彼らは本能的に
「自分を守る関係性」を見抜いて大切にしていたのだと思います。

今はSNSの普及で距離を超えてつながりを保ちやすい時代です。
移動の多い海外生活の中でも、
どうかお子さんの友人関係を大切にさせてあげてください。

そのつながりが将来、苦しい気持ちを救い

前を向いて歩く力となってくれるかもしれません。

海外で育つ子どもたちが、
「自分にしかできないこと」に
希望をもって取り組める未来のために。
このエッセイが、少しでもお役に立てたら幸いです。

Oya*CoLab
田中 真左子


これまでのエッセイはこちらから
前編「海外で育つ子どものアイデンティティと私たちができること
中編「海外で育つ子供たちの“心の軸” ― 親が背負わなくていいもの」

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