海外で育つ子供たちの“心の軸” ― 親が背負わなくていいもの

前回のエッセイ『どこに立って世界を見るか』で「立ち位置」に関して少し触れたと思いますが、
これを今回もう少し紐解いてみたいと思います。

「立ち位置」とは、
アイデンティティであり、物事を「自分ごと」と認識するための軸。
感情はこれを起点に立ち上がります。

この「自分ごと」

例えば世界のどこかで起きた大きな災害のニュースを見て、私たちは「大変だ」「気の毒だ」と思う。
でも、日本で起きた災害の映像を前にしたとき、
同じ言葉では表せない感情が胸に迫ってくる。
その違いは、その出来事を“自分の延長線上の出来事”として感じているかどうか。

そしてその感情は、その出来事が「(日本人の)アイデンティティ軸」に触れることが出発点。
これがないと何事も自分ごととして感じられない。
だから「何にも共感できない自分は何者なのか」と自身に問う状態は、非常に重たいものです。

私は日本で生まれ、アイデンティティが形になり始める思春期も日本。
選択の余地なく日本人としてのアイデンティティ(軸)を「与えられた」存在です。
対して海外で育つ子供たちは、アイデンティティ(軸)を「与えられなかった」存在。
だからそれを自分で選び、自分で育てる必要があります。
多様な文化の中で軸を育てることから、多くの場合は一つを選びきる事はないと思います。

ある時は日本の軸。でも、ある時は...
と、場面によって共感したりしなかったり。
心が動くタイミングや角度が他の人と違う違和感を子供たちは体験するかと思います。
でもそれを、「都合よく切り替える」「軸がない」と思わないでください。

軸を「切り替えられる」という強み

軸の切り替えはまさに先の「ジャパンボム事件」で次男が体験したことなのです。
授業ではアメリカの戦争認識を理解する立ち位置をとりながら、
子供の悪ふざけには日本の立ち位置から猛烈に抗議した。

軸を「切り替えられる」ことや「各々の文化的背景を体感で理解できる」多角的な視点こそが
「軸を与えられなかった」代わりに手にしたもの。
どんな努力をしても得られない「異なる文化の架け橋」として必要な能力そのものなのです。

しかし、使い分けるには日本に由来する自分(軸)を育てる必要がある。

軸はどうやって育つのか

海外で育つ子供たちのアイデンティティ(軸)が育つ土壌や栄養(素材)は
自動的には用意されていません。
補習校などでは日本文化体験的な行事がありますが、
それはあくまでも“ある”という存在を知らしめる「情報」があるにすぎないのです。

子どものアイデンティティ形成に本当に必要なのは情報ではなく素材、つまり
「誰かによって意味付けされて日常の中で使われている事例モデルたち」。
そしてそのメインの担い手は、子どもにとって最も近い存在である親である私たちなのです。
でも、なんだかピンとこないと思います。

物事そのものの情報はあってもその意味付けをするのは人。
しかも、たとえ思春期であっても言語能力の脳の発達過程でもある子供は、
言葉以上に、大人の意味付けされた行動などを通して
“物事とのかかわり方の一つのモデル”として取り込んで、自我や軸を成長させます。

例えば「食事」。その情報は「生きるために食物を摂る行為」です。しかし
それぞれで簡素な食事を食べる家庭と、
食事を囲んでその日会ったことを話し合うのが日課の家庭があった場合、
前者は「食事はおなかを満たすもの。それ以上も以下もない。」
後者は「出来事や気持ちのやり取りができるコミュニケーションの場」
という意味付けされた概念を価値観とともに受け取る。

それを子供たちが意識・無意識的に取捨選択し、時には再現することによって
自己(アイデンティティ)が形成されます。
しかし、その素材自体がなければどうでしょうか?

それはわかったけど日本に関して伝えるべきものすらピンとこない。
そんな時、自分の中の日本アイデンティティ軸の細さを感じる人もいるかと思いますが、
それは普通です。
日本で生まれ育った人でさえ、その軸は細い。なぜなら、
子どもの頃から日本を「情報」としてしか受けとってきていないからなんです。

情報だけでは育たない軸

第二次世界大戦後、教育現場では自国の文化や歴史について
「誇り」や「愛」など、感情や評価から切り離した
第三者的な立ち位置からの「情報」を是として、教育として与え続けていました。

教育現場から家庭に至るまで「情報だけ」を与える土壌が浸透した結果、
日本で生まれ育った人でさえ、
「自国を誇りに思う」という言葉に感情が乗りきらない感覚を覚えるような
細い軸しか育たない環境となりました。

私が渡米当初に通ったESL(地域の英語教室)では
積極的に自国の文化や誇りについて共有する機会がありました。

他国の人が嬉しそうに「いかに自分の国を愛しているか」を語る中、
自分の頭の中には歴史的な日本の「情報」は多少あるが語れないし
当たり前すぎて好きかどうかなんて考えたこともなく、感情がわかない。
まるで、「いかに空気が好きかを語ってください」といわれているようで
日本人なのに日本を語れない「日本人軸の細さ」を強烈に感じました。

背負わなくていい、必要なのは「好き」と向き合う姿

では、軸の細い親は子供のアイデンティティ(軸)形成に貢献できないのか?
わたしはそう思いません。
先日、たまたま子供同士で話題に上がった「天皇」についての質問に
親として適切に応えられなかった。という話を聞きました。
一緒に調べこそすれ、神話と現実の境の曖昧なほどの長い歴史の隅々まで
知ることは不可能だし必要もないことだと思います。

必要なのは情報でなはく、
「物事が意味付けされ、私たちの中で価値あるものとして認識されている形」
具体的にいうと
私たちの中の日本由来のものに対する「好き」を育てて向き合う姿。

発酵食品、書道など身の回りのほんの小さなことでいいんです。
私の場合はハンドメイドである水引細工でした。水引細工そのものの歴史から、
日本の伝統色、形の意味や込められた想い、
そして水引とのかかわりの深い神社仏閣と、どんどん興味が広がり深まる。
その過程で日本に対する感情と誇りが産まれ、私の中の“日本軸の育ち”を感じました。

そしてそれは子どもたちにも伝わっている実感があります。
私は子供たちに積極的に語ることはありませんが
私が水引細工の制作を楽しみ、レッスン企画に沢山の時間をかけ、
その価値を他人と共有しようとしている姿から
子供たちは、私の日本への愛情と誇りを感じ
「真摯に向き合うべき価値のあるもの」「誇ってよいもの」
という価値観を受け取ってくれているように思います。

「共に育つ。」

子育てはとかく「育てる」スタンスになりがちですが、
アイデンティティに関しては背負ったり気負う必要はなく
親も子も、お互いを通して『共に育つ』スタンスでもいいのではと思います。

Oya*CoLab
田中真左子

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